みなさんこんにちは。
つぶやこうと宣言してさっそく第一弾。
私って食べ物残さないんです。
家庭でも外食先でも。宴会なんかでワーッと出てきてしまった場合は無理ですけど、
でも自分の前に自分の物として提供された物は食べきるようになっています。(習慣づいて)
なんでそうなったのかなと考えたのですが、両親と祖母のしつけのおかげ以外にないですね。
小学校の時、夏休みになると親元を離れて祖母の家に行き半月ほど過ごすのが毎年の恒例でした。
祖父がいなく一人暮らしだった祖母はとてもやさしく接してくれるので里帰りが楽しくて仕方がなかったのを今でも覚えています。
ただ食べ物を残す、物を粗末にすることに関しては厳しかったです。
ご飯やおかずを残すと叱られるどころか、かけすぎて残ってしまった醬油にさえ厳しくおとがめを受けました。
かけすぎてしまった自分が悪い、必要な分だけかけるようにしなさいとしつけられました。
残った醤油は白菜の漬物に吸わせて食べたものです。
お茶碗に残ったご飯粒にはご飯粒が残らないようにうまく食べることを教わり、出来なかった時はお茶をかけて
たべるようにしました。祖母はご飯のおひつに残った米粒もお湯を掛けて重湯にして食べていました。
これを貧乏くさいと一言で片づけてしまうとそこまでなのですが、昔の人はとにかくもったいないの気持ちが強く
まだ使える、まだ食べれるということをよく仰っていたように思えます。
そんな文化が間違いなく日本にはあったと思うのですが、現在の日本はどうでしょうか?
最近なにかの折りに話題になる自給率と食品ロスについて、改めて見てみると日本では年間で612万トンの食糧を廃棄しているとのこと。
事業系の食品ロスが328万トン、家庭でのロスが284万トン(農林水産省発表)。
作りすぎて売れ残ったり、多すぎて食べきれなかったりといろいろな理由はあるでしょう。仕方のないこともあるとは思います。
でももったいないですよね。
別のエピソードですが、こんな話もあります。
社会人としてスタートした時の話ですが、海外の食品生産工場で生産現場の立ち合いをさせられていました。
上司からクレームにならないように規格外品をちゃんと除去できているかどうかを監視することがミッションだと言われ、朝から晩まで製造現場に立ち会っていました。
現場の作業員の人たちと交流ができてだんだん仲良くなってきたある日、
『これは使っても良いか?』と質問されました。
緑のきれいなほうれん草でしたが、折れていて規格に沿っていないから駄目だと答えたところ、
『食べれるのに?』との返事が返ってきた時、私は返す言葉がありませんでした。
冷凍エビを作りに行った時もそうです。エビのしっぽの先、4枚のヒレがついているんですが、1枚欠けているから規格外で使えない、ということもありました。
規格というものを定めないと製造がうまくいかないことも理解できますし、別の用途で再利用してもらえれば報われますが、
記憶の限りではその時のほうれん草は近くの処理場へ捨てにいっていました。
これらの話をするとみなさん驚かれます。
手軽に食べられるように加工されている商品の裏側にはこんなことがあるんですね。
経済活動の一環として捨てられたものも含めてその生産を行った企業に利益が出ているからOKという理屈もあるかと思います。
それらがあるからこそ無駄が省けて効率が良いという意見もありました。
ですが、この場で私が伝えたいことは食べ物に対する感謝を忘れていませんかということです。
食事前と後に『いただきます』と『ごちそうさま』を言う文化が日本にはありました。
食べ物に感謝するのが当たり前だったけど、飽食の今の時代、食べ物に対する感謝が薄れていませんか?
粗末にするとばちが当たるとかって昔のセリフのような気もしますが、昔も今も未来も変わらないことだと思います。
皆さんはどうでしょうか?
もし『そういや昔は言ってたけど、今は言ってないな』と思われた方、次の食事から見直してみませんか?
何か皆さんの心にひびくものがあれば幸いです。