2020年5月1日、野菜を通じた食の国際交流を生業とする株式会社HIBIKIは、設立2周年を迎えました。
今回は、弊社Webサイトの制作・管理を担当していただいている株式会社AND SPACE様とタッグを組んでの「記念対談:後編」をお届けします。
食料自給率の低下や食品ロス問題が取り沙汰される日本社会において、人々の「食」に対する考え方は…?豊かになり過ぎた現代にこそ必要な「食育」のあり方は…?
新型コロナウイルスの騒動に揺れる今、日本の未来の「食」についてを語り合います。
◆ 出演 ◆
スピーカー / 株式会社HIBIKI 代表 小山博司
聞き手 / 株式会社AND SPACE コピーライター 橋田耕介
好きなものを、好きな時に、好きなだけ食べられる時代
橋田 近年、認知度が高まってきている「食品ロス問題」は、食料の問題だけなく、地球環境の資源全体にも目を向けることのできる、社会的課題だと思います。
「無駄をなくそう」「もったいない」「エコに生きよう」などの運動は、限られた資源をシェアしながら生きていくために、家庭・企業・地域で地道に取り組んでいくことが大切です。
しかし一方で、いつだって欲しいものが手に入る環境に慣れてしまった現代人には、「そんなことしなくたって」との考え方も根強いのではないかと危惧します。
小山 好きな時に好きなものが食べられることだけでなく、好きな時に好きな量が食べられる。まさに今は、「飽食」の時代ですよね。
恵まれていることに慣れてしまった人間とは言え、「好きな時に好きなものを好きなだけ食べられることは幸せなんだ」という思いを心のどこかで感じて、口に出していることだってあるでしょう。
でも、悲しいかな。それが毎日のことであるがゆえに、心の底から「感謝すること」は忘れ去られがちになっていると思います。
橋田 そうですね。食べたい時に食べたい分だけ食べられることが当たり前過ぎて、私たちはそれを「常識」と認識しています。
でも、その当たり前が当たり前でなくなった時、人は驚くほどの「焦り」や「危険」を感じるものです。
小山 安心しきってしまっていると、無意識のうちに行動に表れてしまう。
お店で食べきれない量を頼んで残したまま帰ったり、家庭でも食べきれてないのに「ごちそうさま」と言って食卓を離れたり…。
結局、この「飽食」による影響が、ほとんどの「食品ロス」を生む原因なんですよね。
「残さず食べなさい」は一昔前のこと!?
橋田 私自身の子ども時代を振り返ると、自宅や外食先や学校で、親や先生から「ちゃんと残さず食べなさい」と口酸っぱく言われましたけど…。
小山 学校の教師が「残さず食べなさい」と指導した時代は、子どもに教える側の教師が教わってきたことを、そのまま同じように教える流れだったと思います。
橋田 もしかしてですが、「残さずに食べましょう」は、一昔前の教育になってますか?
今の時代、「残しちゃダメ」と教え子に言うと、「◯◯ハラスメント」などとツッコまれてしまうのでしょうか?
小山 教育現場で「残さずに食べなさい」という指導そのものが薄らいできているのは、間違いないでしょうね。
「飽食」がもたらした「残してもいい」という風潮
橋田 各家庭でも同じでしょうか?
小山 子どもだけではなく、親が平気で食べ残す場面を目にすることも多いので、我が子に面と向かって言えないですよね。
なぜ、昔は当たり前だった教育までが変わったのかを考えると、ここでも「飽食」が理由にあげられると思います。
「いつだって食べられるのだから、またお腹が空いた時に食べればいい」「そんなに値段も高くないし、ちょっとぐらい残してもいい」という気持ちが、どうしても人の心に湧いてくるのではないかと。
橋田 今食べれなくても、また食べればいい。また欲しくなったら、すぐに買いに行ける。
「飽食」であることはもちろん、市街地であれば近くに24時間営業のコンビニがたくさんあって、気軽な金額でいつでも空腹は満たせる訳ですから。
無理に食べきらなくてもいい条件が、いろんな面で揃っていますよね。
小山 与えられた食べ物を、ちゃんと無駄なくいただく。これが、一番大切なことなんです。
かつて当たり前に使われていた「残さずに食べよう」という言葉には、この意味合いが間違いなく含まれていました。
橋田 最近は、給食やお弁当の時間に「いただきます」や「ごちそうさまでした」を言わない学校もあると聞きます。
両手を合わせて、みんなで「いただきます」と言う行為が“宗教的”だという理由らしいのですが、私たちの世代だと考えられないですよね。
小山 考えられないと言うよりも、ありえませんよ。
食事の前に「いただきます」、食べ終わった後の「ごちそうさま」を言わない大人も増えていますけど、子どもの頃に習慣としてなかった人が、大人になってから使い始めるとは思えませんからね。
「いただきます」と「ごちそうさま」の間にある“真の食育”
橋田 そんな時代だからこそ、「食育」の大切さが叫ばれているのかもしれませんね。
小山 そうですね。ただ、私の考える「食育」は、先ほどから話題になっている「もったいないから、残さずぜんぶ食べなさい」ではありません。
まずは、毎日欠かさず食べ物を食べられることに対して感謝する、「いただきます」と「ごちそうさま」の言葉を大切にしたいと思っています。
そして、この食事の最初と最後の“間”にこそ、本当の「食育」の大切さを見つけることができると思っています。
橋田 「いただきます」や「ごちそうさまでした」は、「おはよう」や「いってきます」と変わらない、日本人にとって身近で当たり前な言葉だと思います。
生きとし生けるものを“頂戴する”という気持ちを表した言葉と言葉の間にある「食育」とは何でしょうか?
小山 「いただきます」と「ごちそうさま」の間にある「食育」。
それは、食事に出てきたメニューに使われている「食材」についてを“語ること”です。
例えば、魚のサワラが夕飯に出てきたとしましょう。サワラは「魚偏」に「春」と書いて「鰆」。そこで初めて、春が旬の食材だと学べますよね。
このように、季節の食材についての意味や知識を、食卓を囲む家族や仲間と語り合うことが大事だと思うんです。
橋田 四季折々の、旬の食材がある日本ならではの「食育」と言えますね。
小山 その逆もありますよ。例えば、春なのに栗が出てきたら、「秋が旬のものがどうして?」という疑問や会話が生まれたりする。
日々の食事の中で、季節を感じて、食材をテーマにして、家庭や会食の場で語り合う。
その場で話題になった知識や情報が、親や先輩から次の世代の人々へ送り伝えていけるような習慣が、とても大事な「食育」になると思うんです。
橋田 家庭料理を食卓で味わうシーンだけでなく、会社の同僚や取引先などと食事に出かけた時でも、その季節にしか味わえない旬の食材を意識的に注文する。
そんな心がけひとつで、日本らしい「食育」のチャンスは広がるのかもしれませんね。
食材それぞれの旬、本来の姿を知ることから
小山 また、別の切り口から考えてみたいのですが、最近、スーパーに並んでいる魚の切り身に骨がまったくないことがありますよね。
骨がない切り身を必要としている人がいるからこそ、存在自体を否定はしません。
橋田 時短・効率化・便利さが極端に求められる時代ですから、ニーズは相当あるでしょうね。
小山 だけど、魚には骨もあって、鱗もあって、食べるときには取り除かないといけないと知っていることが大切だと思うんです。
骨のない魚を選んで、“これは便利だと驚く”のならまだいい。でも、魚から“骨が出てきて驚く”ような人もいるというのは、黙ってられませんよね。
橋田 ちゃんとした魚の形を知らない子どもたちの中には、スーパーに売っている「切り身」の状態で海を泳いでると思っている子もいるらしいですからね…。
おそらく、野菜も同じでしょう。スーパーに並んでいるキレイな状態の野菜や、調理された後の野菜を見たことはあっても、収穫されるまでの状態や収穫直後の様子を見る機会はほとんどない。
まして、どんな花をつける野菜かを知っている人は、ごくわずかな気がします。
小山 野菜や果物や魚や肉など、食材それぞれのことを“知ること”が一番大切です。
旬のものが食卓に並ぶから、「もう春か」「もう秋か」との気づきがあったり、「旬のものは美味しいね」と会話したり。
食材ごとの旬を知っていればこそ、旬じゃない時季にその食材を食べられることにも、ひときわ喜びを感じられると思うんです。
橋田 春の時季にふと立ち寄った居酒屋さんで、タケノコを使ったメニューを見つけると頼みたくなったり、今しか食べられない優越感や幸せを感じるものです。そこから、「どこで採れたタケノコなんだろう?」と産地の話題で少しだけ盛り上がったり。
確かにそれは、誰にでもできる、暮らしに密着した「食育」ですね。
“当たり前”のことに感謝するための「食育」を
小山 食材それぞれの旬を知ったその次は、「食材を作る苦労を知る」、「手にする喜びを知る」につなげていく。ここまでのステップを踏んで初めて、“当たり前のこと”に感謝できる心を持てるようになると思います。
好きな時に好きなものを好きな量だけ食べられることに、より深い感謝の気持ちを持つことができれば、「粗末にしてはいけない」との思いだって自然に湧いてきますし、「食品ロス問題」への関心にもつながっていくのではないかと思います。
橋田 「食育」のあり方が語られる際、「食べられることへの感謝の気持ちを持とう」との論がほとんどな気がしています。
理想論やスローガン的な言葉だけで終わるのではなく、具体的にどのようなアプローチをすれば、そのような感謝の気持ちを持つことができるのかが重要です。
だからこそ、今回ご提言いただいた「食材」に目を向けたご意見は、非常に意義深いものと考えます。
小山 「日本人と食」の根本的な問題に目を向ける場合でも、一足飛びには難しいと思うので、普段から地道に取り組める「食育」から始めましょうと呼びかけていきたいですね。
自国で自国民の食べ物が100%まかなえる理想へ
橋田 「日本人と食」の根本的な問題については、株式会社HIBIKIを設立された当時から、一貫した思いをお持ちですよね?
小山 私自身、海外から青果物を輸入することを生業とし、生活をさせてもらっている立場ではあります。
しかし、一人の日本人として思うのは、自分の国の中だけで作られた農作物だけで、国民全員が食べられるだけの収穫量を確保できること。これをずっと、強く望んでいます。
橋田 言わば、食料自給率100%の実現ですね。
小山 「どうして食料自給率が低いの?」といくら議論を重ねても、小麦は87%、大豆は93%を輸入に頼っている現実があります。牛肉や豚肉も輸入に依存し続けているのが現状です。
でも、その一方でお米はどうかと言えば、自国で作った収穫量で全国民分をまかなえているんです。
食料自給率の向上、農業従事者の確保、食文化の見直しなど、やらなきゃいけない改革は山ほどあります。しかし、普段私たちが食しているものの中に、海外に依存している割合が以上に高い作物や畜産物があることを一人ひとりが認識していなければ、どんな改革も進んでいかないのではないでしょうか。
橋田 置かれている現実をちゃんと把握し、認識し、その上でどう対策を打つべきかでなければならないと。
もし、今まで通りの輸入が途絶えたとしたら…
小山 なぜ、自国で自国民すべての食料がまかなえることを望むのか。
それは、今の状態を“当たり前”と思うことが危険だと思うからです。
橋田 今までと同じように海外からの輸入がずっと続くとは限らない。もし、何かあった時に、いつも食べれていたものが食べられなくなるかもしれない。
そのような危機意識を常に持つべきと?
小山 そうです。確かに日本は、豊かで進んだ国だと思われていますし、「円」も信任された通貨として認識されています。
だから、諸外国は日本との貿易に取り組んでくれている。ただしこれは、「今はそう」という話です。「本当にこれからも、未来永劫そうですか?」と思うことだって、大事だと思うんです。
橋田 新型コロナウイルス感染症の騒動でも明らかになりましたが、予期せぬ混乱や騒動の中では、当たり前が当たり前じゃなくなることが平気で起こりえます。
マスクの不足や紙製品の買い占めなどが取り沙汰されていますが、海外での生産に頼りきっていた物品や食材がまったく手に入らないという現象は、コロナ禍の中で浮き彫りになりましたから。
小山 今まで当たり前に輸入できていたものが、もしパタッと輸入できなくなったら、私たちはどうするの?と。私たちの食生活はどうなるの?と。
そんなことを考えるのは「政治家の仕事だろ」と言って、丸投げしていても始まらないと思うんです。
コロナ禍のマスクの不足による全国的な混乱で、みんなが痛い目を見ていますよね。思いもよらぬ事態が襲ってきた時には結局、自分たち一人ひとりの力でどうにかしなきゃいけないことがある。その危機感を、今こそ持たなければいけないと思います。
橋田 海外に頼りきっている農作物や畜産物が今までのように日本へ輸入されなくなったとしたら、国内の生産量だけではまったくまかないきれない訳ですよね。
「すぐに手に入る」が「全然手に入らない」となった時のために、できる対策を今から行っていくことが求められている気がします。
この国の食文化の素晴らしさを“再発見”するために
小山 その危機意識を多くの人が想定できた瞬間に、「日本には米があるじゃないか」と気づく人が増えていくでしょう。
また、健康志向が叫ばれる中で、肉ではなく魚中心の食事を見直す動きも広まっていくと予想しています。
自国で生産した食料で、自国の国民全員のお腹を満たせる。やはりこれが、一番当たり前の姿だと思うんですよね。
橋田 この国の良さを再発見して、伝統的な食文化を未来へ伝えていくこと。
そのために、国レベルの自給自足を叶えられるかどうかが、鍵を握る訳ですね。
小山 そこで初めて、本当に安心して暮らせると思うんです。
その理想を叶えようとするならば、まずは、農業や畜産業の生産現場に従事する人の数をもう少し増やすこと。
そして、その生産現場から、「作る苦労」「有り難み」「食す喜び」を日本全国へ発信してもらいたいと願っています。
橋田 農業従事者の高齢化や次世代の人材育成は、社会問題のひとつにもなっていますので、とてもタイムリーな話題ですね。
今の世代から次の世代へとバトンタッチする際に、農業の技術だけでなく、忘れてはいけない「食への思い」も一緒に託していく。そのことの大切さや意義深さが、よくよく分かる対談となりました。